あがりがまち


【龍野町川原町にある町家の思い出】

 揖保川水系の中流のたつの市新宮から下流域の揖保川町や姫路市網干区は旧龍野藩脇坂家の領地として栄えたところで、その中心はたつの市龍野町の川西にあるお城を中心とした地区でした。たつの市龍野町は小京都として有名で京町家ほど大規模ではありませんがまだ古い町家が残っています。地方の過疎化が進み、空き家が増えて空き家の維持・管理ができなくなって取り壊す例も増えてきました。歯抜けになった町並みは寂しいものです。

 私の管理する物件は主として揖保川沿いにあり、塩野ハイツは揖保川の支流林田川の右岸、あかねハイツは揖保川の右岸、林田川の左岸、このあがりがまちは揖保川の右岸、網干MINORUビルは揖保川の左岸に位置しています。
 今回(2019.10.18)、龍野町の一部が国の文化審議会から「重要伝統的建造物群保存地区」として答申され、文部科学大臣によって指定(2019.12.23)されました。揖保川の右岸に沿った古い町並みを残す取り組みが本格的に始まろうとしています。
 この重伝建地区指定の趣旨は文化財としての建造物を「点」(単体)ではなく「面」(群)で保存しようとするもので、保存地区内では社寺・民家・蔵などの「建築物」はもちろん、門・土塀・石垣・水路・墓・石塔・石仏・燈籠などの「工作物」、庭園・生垣・樹木・水路などの「環境物件」を特定し保存措置を図るものとなっています。
 この大切な地区指定を受けて、私自身の龍野の思い出をまとめてみました。この思い出のある建物はたつの市龍野町川原町にあり、取り壊されず残っていますが一方、この地区は揖保川の影響を強く受ける場所でもあります。古い町並みが残る反面、温暖化に伴う台風等の増大影響でハザードマップから見ても河川氾濫による浸水の恐れがあり、防災上の取り組みも待たれる場所となっています。たつのでは畳堤の取り組みなどもあり揖保川を通した森川海のつながりを感じます。
 今回、この建物を取得することになりその思い出を書いてみました。


1 「通り土間の思い出1」
 たつの市龍野町の川西地区の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に選定されるということで選定理由の一部から建物の事について審議会の推薦理由を掲載してみました。
 この理由の中にある「平面は,通り土間に沿って3室を1列に並べるものが主体を占め」の通り土間というのが子どもの頃から不思議でした。ただでさえ狭い間口に土間が通っていて一つ一つの部屋は大きくない。この家は2階の窓際天井高が少し低い「つし2階建て」ガラス窓だった、窓は取り替えられるので建てられた当時はどうだったかわかりません。屋根は切妻・平入り、桟瓦で様式からは明治中期頃の様式を残しているが大正期の建築のようである。近世以降2階建て、明治中期以降は本2階建てが多くなったようだがこの2階に上がる階段は襖の裏に隠れていて一見してわからない造りで、階段下の収納を考えた造りとなっています。川原町は藩政時代の武家地が並ぶ地区でだったが一部を残して町人地へと変化したそうだ。
 子どもの頃、神戸から龍野に訪れた時いつもこの暗い通り土間を通って奥に進むとおばあさんや伯父さんがいて温かく迎えてくれたものでした。
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文化審議会の推薦文
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 保存地区は,城下町のうち,旧町人地の主要部を含む範囲で,江戸時代から昭和戦前期にかけて建てられた伝統的建造物が良好に残る。敷地の間口いっぱいに建つ主屋は,切妻造 ,平入を基本とし,近世はつし2階建の本瓦葺が多く見られるが,近代になると桟瓦葺が主となり,明治中期以降には本2階建のものが増える。
 平面は,通り土間に沿って3室を1列に並べるものが主体を占め,間口の大きい家では2列となる。1階は,古くは出格子を構えるものや,全面を引戸とするものが見られ,大正以降になると,腰壁を設けて格子窓とする形式が多くなり,同形式への改修も進んだ。2階は大壁を基本とし,虫籠窓や出格子窓のほか,金属格子をはめるもの,近代になるとガラス窓なども現れる。
 主屋以外には,門や敷地の周囲を囲む高塀などもみられる。保存地区には,しょうゆ醸造に伴う 長大な土蔵造の建物や洋風建築等の醸造関連施設もみられ,近世から近代にかけて発展した醸造町の歴史的風致を形成する。

2  両親と通り土間を通っておばあさんに会いに行き、亡くなってからはお参りに行った際、いつも出てきたお菓子が下川原の吾妻堂の和菓子だった。その中でも甚内最中が一番記憶に残っています。おばあさんは小学校の3年頃亡くなったと思う。母はおばさんにはかわいがってもらったそうで嫁姑の関係は全く聞いたことがなかった。
 大学院を出て姫路の大学に就職先を得た際、その大学を選んだ理由として、住んだことのない姫路ではあるがその隣の龍野の思い出が自分自身の決定に大きな影響を及ぼしたことは確かだった。それ以後、時々龍野に寄る際はこの最中を購入していた。

3 おじさんよりおばさんの方が早く亡くなり、通り土間の家で一人暮らしをしていたがおじさんも具合が悪くなり、99歳で亡くなった。病院にはいっているとき見舞いに行ったが、なかなか元気だった。特に頭の方はぼけてなく、なかなかの弁舌を振るっていた。私もこうなりたいなと思ったものだ。父は100歳を超え、兄を抜くといっていたがその通りになっている。
 跡を継いだいとこはとうに龍野を出て宝塚在住。通り土間の家も空き家となってしまい、訪れる事もなくなった。

4  私より16歳上のいとこがまた龍野への思いが強い人で、そのうちこの空き家を龍野のため活用しようと考え出したようだ。
 宝塚に住みながらも近所の方の助力を得てこの町家のリフォームを行い、「川原町町家ギャラリー」としてイベント等で開放するということを始めた。通り土間に面して配置されていた和室はこの時、開放的な空間に変わっていきオータムフェスティバルでも会場として提供された。フェスティバル中、そこを喫茶として利用される方も出てきた。しかしながらイベント時以外はあまり活用はされず、管理も不十分だったように思える。私より16歳上のいとこもふるさと創生塾等に参加して活動してきたが時の経過による高齢化のため段々活動がしにくくなり、中・西播磨で活動している私に何かと助力を求めるようになってきた。
 しかしながら、維持管理の難しさや高齢化による車移動の制限もあってこの建物を手放す事になってしまいました。建物の雨漏り問題や傾き等が目立ち、補修に多額の費用が必要であるということも理由だったと思われます。また、多くの方に使って頂くために必須となる水洗トイレの設置も資金的障害でした。

5  中学生か高校生の頃だったか、自分のルーツのことに興味を持ち、夏休みに何回か通り土間を通って江戸時代以前の資料を探しに行ったことがある。当時は簡単にコピーできる状況ではなくモノクロ写真で写した記憶がある。それを写真に焼かずネガとして保存しようと考えたわけだ。ところがそのネガもどこに行ったやら。資料の一部は私が頂いて保管している。さすがにそれはまだ残っていて大切にしている。
 祖父母はもともと通り土間の家に住んでいたわけではなく明治時代の軍人で転勤があったのだろう。先祖から住む金沢に戻らず武家屋敷を手放したと聞いている。祖父は長州出身の士族で、金沢の熊谷家に養子に入った。熊谷家は維新後薬屋を始めたようだが武士の商法から失敗したと聞く。昨年の2月、同じように重要伝統的建造物群保存地区に選定されている鹿児島県知覧の武家屋敷群や宮崎県飫肥の武家屋敷群を訪れたことがあった。知覧では広い屋敷に庭が今でも整備され、昔の武士の生活が偲ばれた。
 金沢でもこんな生活だったのだろうかと思いを巡らした記憶がある。祖父母が通り土間の町家に住むきっかけはなんだったのだろうか?理由はわからない。

6  私の祖父母がいつからどのような理由で通り土間の家に住むようになったのか定かではない。正しいかどうかは不明だが大正11年の築と聞いているので父の幼少期に新築されたようだ。経緯を一度聞いてみようと考えているが父も100歳を超えて覚えているかどうか心許ない。
 ただ、ずっと住んでいたのではなく戦前の一時期、家族で東京に住んでいたと聞いている。その理由たるや父の大学進学で東京に行くことになり伯父、いとこ家族も一緒に引っ越ししたのである。戦前の時代としてびっくりである。通り土間の家はしばらく空き家状態だったであろう。父は祖父母が年を取ってから生まれた子どもでたいそうかわいがられて育ったようだ。一番上の伯父は士官学校を優秀な成績で出て任官したと聞くが、若くして亡くなった。おそらく将来を期待していただろう伯父の死は祖父にも堪えたのだろう。父がかわいがられたのはそのこともあるのではないかと推測している。祖父は父に家督を継がせるつもりだったと聞いている。
 ただ、当時の日本の周囲の国際情勢は極めて悪い方向に向かっている時代で、父は3月の卒業を3ヶ月ほど繰り上げとなって大学を卒業し、招集されて軍隊に入ることになった。そのまま出征で戦線に出てしまった。おそらくこのことより祖父母はまた通り土間の家に戻ってきたのだろう。慶応3年生まれの祖父は昭和20年に亡くなり、同じく終戦で南方で捕虜となった父はすぐには帰国できず、すぐ上の兄が家督相続で通り土間の家を引き継いだ。祖母が残り、私の思い出は祖母のもので祖父の思い出はない。

7  母は神戸で育ち、働いていたが実家は農家であった。土地は小作に任せて母方の祖父母は神戸に出ていたからだ。田舎の家は江戸時代からの造りの宿場町の建物で昔は副本陣もしていたと聞いている。戦争で神戸が空襲に遭い、家は全焼。田舎の家に戻ってきたが母方の祖父も戦争中に亡くなった。母の弟が継いだがこれまた神戸にいて祖母が元気な頃は良かったが、亡くなってからは家の管理ができなくなっていた。昔ながらの造りが残る農家の家も非常に思い出がある。この江戸時代の農家の家は叔父が管理できないと取り壊してしまった。自分の思い出の場が無くなった後はその跡には行っていない。柿の実る時期、祖母は柿の好きな私のためか干し柿をよく作ってくれた。冬休みに行くといつも軒下に干し柿の連が並んでいた。
 通り土間の家は幸いに取り壊されること無く現在も残っている。親が転勤族で引っ越しをよくしていた私にとっては変わらない建物が一つのよりどころだったと思う。

8 この通り土間のある町家は維持できなくなったいとこにより売却され、新たな所有者となった工務店によりリノベーションされて生まれ変わった。この町家は龍野のまちづくりのために活動するNPOが「あがりがまち」という名称で町家案内所の拠点の一つとしてその活用を始めた。今回の重伝建地区指定と時を同じくして私の手の元に戻ってきたのは何かしらの因縁を感じる次第である。今後の龍野町川西地区のみならずたつの市、播磨一円に活動を広げるための拠点の一つとなり得ると信じている。

補足:京町家では「通り土間」では無く「通り庭」と呼んでいる。ここでは文化委員会の答申の表現に従い「通り土間」と表現した。京都の京町家の条例リーフレットを参考に紹介する。https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000228/228362/Leaflet.pdf

(2019年12月27日)


昭和30年1月2日 あがりがまち裏庭にて熊谷家揃って撮影 家紋の向かい鳩
おじの前にいる正面真ん中の子どもが筆者(4歳)。

 

あがりがまちの外観・内部(2017年1月リノベ済み)
外観 切妻平入り、桟瓦、つし2階、袖うだつ(袖壁)、格子、漆喰

建物内部

通り土間

内部は畳から板間に改装し、イベント等でも使用。通り土間の天井部にはラインを描いた鉄骨を入れ横揺れ補強をしています。

2階
つし2階の板間

2階奥座敷